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札幌高等裁判所 昭和51年(う)248号 判決 1977年3月17日

被告人 藤井廣一

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人田中宏提出の控訴趣意書及び補充書に、これに対する答弁は札幌高等検察庁検察官秋山冨雄提出の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用し、当裁判所はこれに対し次のように判断する。

控訴趣意第一(理由のくいちがいの主張)の一について

所論は要するに、原判決は、被告人が普通乗用自動車(以下「被告人車」という。)を運転して交差点を右折進行し、対向直進車である加藤勝運転の普通乗用自動車(以下「加藤車」という。)に自車を衝突させた旨の事実を認定したが、加藤車の走行速度については何ら判示していない。すなわち原判決は、被告人に具体的注意義務を課するための前提となる具体的事実を確定することなく、安易に被告人の過失を認定しているのであつて、理由にくいちがいがある、というのである。

本件において、被告人の過失の有無・程度を判断するには、加藤車の走行速度の認定がなされなければならないことはもちろんである。しかしながら、有罪の判決における「罪となるべき事実」の判示としては、刑罰法令各本条の構成要件に該当すべき具体的事実を、当該構成要件に該当するかどうかを判定するに足りる程度に具体的に明白にし、その各本条を適用する事実上の根拠を確認しうるようにするをもつて足りるのであって(最高裁判所昭和二三年(れ)第一一七一号同二四年二月一〇日第一小法廷判決・刑集三巻二号一五五頁参照)、必ずしもそれ以上に、犯罪の成否や違法性の程度に影響を及ぼす事実をすべて詳細に説示しなければならないものではない。原判決が加藤車の速度を明示的に判示していないことは所論のとおりであるが、その認定をしていないわけではなく、原判決の「証拠の標目」に加藤車のホイールベースに関する電話通信書が掲げられており、これが加藤車の走行速度を認定するために意味をもつ証拠であることに徴しても、その認定がなされていることは明らかであるといわねばならない。そして、これを明示的に判示していない場合には、加藤車の走行速度が、当時の状況のものにおいて予測しうる程度の速度(必ずしも、制限速度以下という意味ではない。)であったという趣旨の黙示の判示がなされているものと解すべきであるから、原判決の「罪となるべき事実」の判示が、右に述べた基準を満たしていないということはできない。

したがって、所論指摘の点で、原判決に理由不備ないし理由のくいちがいがあるとはいえず、論旨は理由がない。

控訴趣意第一の二について

所論は要するに、原判決は、「(被告人には加藤車)の進路を妨害しないようにして事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務がある」としながら、この注意義務に対応する具体的過失行為を記載していないので、原判決には理由にくいちがいがあるというのである。

しかしながら、原判決は、被告人に課せられた注意義務を「(加藤車)の動静に注視し、その進路を妨害しないようにして事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務」と判示したうえで、被告人には、この注意義務を怠り、「(加藤車)の動静を注視せず、同車よりも先に交差点を右折できるものと軽信して、右折進行した過失」があつたと判示しているのであるから、彼此照応していることは明らかであつて、理由にくいちがいがあるとはいえない。論旨は理由がない。

控訴趣意第二(事実誤認の主張)について

所論は要するに、本件において被告人に課せられた注意義務は、右折のために対向車線に進入するに先だち、同車線を直進して来る車両の存否を確認し、これが存在するならば、同車までの距離を確認し、さらに同車が最高制限速度ないしこれに近接する超過速度で走行して来ることを想定して、自車の右折完了までに右車両が両車両の進路の交点に到達しえないことを確認したうえで、速やかに右折を完了するに足りる速度で発進することである。本件においては、被告人車と加藤車の位置関係からして、加藤車が時速四〇ないし六〇キロメートルで東進して来る限り、被告人車は十分安全に右折し終えることができた。しかるに、現場に残されたスリップ痕の長さから推算すると、加藤車の速度は時速六一・〇二キロメートル以上であつたと認められる。本件事故の原因は、制限速度が時速四〇キロメートルであるのに、加藤車がこのように並はずれた高速度で進行したことにあり、被告人には何ら注意義務に欠けるところはない。したがつて、被告人が注意義務を怠つたとする判決には事実の誤認がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ、記録を精査し、当審における事実取調の結果をも合わせて、検討を加える。

まず、関係証拠により次の事実が認められる。すなわち、本件事故が起きたのは、札幌市の繁華街にあつて、東西に通じる南四条通り道路と南北に通じる西四丁目通り道路とが交わる広い交差点(通称すすきのロータリー)である(以下「本件交差点」という。)交差点の東方道路は幅員三六・五メートルで、中央分離帯があり、南側西進車線の有効幅員は一四・四メートルである。交差点の西方道路は幅員三三・〇メートルで、中央に路面電車の安全地帯があり、北側東進車線の有効幅員は一一・〇メートルである。交差点の北方道路は幅員二三・五メートル、南方道路は幅員一五・〇メートルである。東方南四条通りと北方西四丁目通りは国道三六号線である。本件交差点は、信号機により交通整理が行なわれており、その中央には直経三メートルの円形分離島がある。以上はすべてアスフアルト舗装、平坦で各道路とも指定最高速度は時速四〇キロメートルである。本件交差点付近は、街路燈などにより夜間も見透しがよい。また、深夜に至るまで交通量が多く、ことに午後九時三〇分以降は、東から北へ右折する車両が多くなる。被告人は、昭和五〇年一〇月三一日午後一一時五五分ころ、被告人車(タクシー)を運転し、本件交差点を東から北へ右折しようとして、青信号に従つて本件交差点に進入し、西方から東方への直進車の通過を待つために、前記中央分離島の中心からほぼ真西へ六・六メートルの位置に、車首をほぼ北へ向けて一時停止した。司法巡査作成の昭和五〇年一一月一日付実況見分調書に添付された交通事故現場見取図(以下、単に「現場見取図」という。)の<3>の位置である。そして、直進車が途切れたときに西方を見て、被告人車より約五三メートル西方(現場見取図の<ア>の位置)に東進中の加藤車を認めたが、同車の通過に先だつて右折することができると判断し、低速度で発進進行した。しかし、約九・二メートル進行して(所論はこれを五・一メートルというが明らかに誤りである。)、現場見取図の<4>の位置に達したとき、被告人車の左後端部付近と加藤車の左前照燈付近とが衝突し、その衝撃により被告人車の乗客が原判示の傷害を負つた。一方、加藤車は、左側歩道縁石との間に約八・七メートルの間隔をおいて東方へ直進していたが、進路前方に被告人車が出て来るのを認めて急制動の措置をとつたものである。現場路面には加藤車の制動痕が印象され、その全長は約一六・八メートルであり、また、加藤車の軸距(ホイルベース)は二・四二メートルである。なお、本件事故当時、天候は曇で路面は乾燥していた。

以上の事実に基づいて考察するのに、まず、右制動痕の長さから、加藤車の速度を推測することができる。当審において取調べた『判例タイムズ二九〇号』所収「制動距離表とその解説」(写)によると、その計算公式は、

(ただし、V=時速(km)、s=制動痕(m)、f=摩擦係数)

である制動痕の長さは、右の全長から加藤車の軸距を差引いたものであるから、s=一四・三八メートルである。また、摩擦係数は、右「制動距離表とその解説」の第4表によると、乾燥したアスフアルト路面であるから、新しくざらざらした状態で〇・六五ないし一・〇〇、ある程度使用されている状態で〇・五五ないし〇・七〇(同第5表によると、〇・五五ないし〇・八〇)である。したがつて、加藤車の速度は、右の公式によれば、最大で時速六一・〇キロメートル(小数点以下第二位を四捨五入。以下同じ)、最小で時速四五・三キロメートルである(ただし、衝突による制動効果を考慮に入れると、さらにこの数値をそれぞれ若干上回るものになる。)。しかし、前記実況見分調書に添付された写真四葉は、事故後に被告人車と加藤車の各損壊状況を撮影したものであり、その場所は本件交差点近くの路上であると認められるが、これらの写真によると、路面はいずれもある程度使用された状態のアスフアルト舗装であることが明らかである。したがつて、加藤車が急制動措置をとつた場所も、同様にある程度使用された状態のアスフアルト舗装の路面であつた可能性がきわて高いといわねばならない。そこで、摩擦係数をこの場合の最大値〇・八〇として計算すると、加藤車の速度は時速五四・六キローメートル以上ということになる。これを、加藤勝及び被告人の各供述と対照してみると、加藤勝は原審証人として、自車の速度が時速五〇キロメートル位であつた旨供述し、一方被告人は、捜査段限においては、検察官事務取扱検察事務官に対し、加藤車が思つたより速い速度で進行して来て衝突した旨を供述するのみであり、原審第四回公判において、最初は、加藤車が時速何キロメートル位であつたかはわからないが、普通の速度であつた旨供述し、後に、五〇キロメートル以上であつたと思う旨を供述し、さらに、原審第五回公判においては、加藤車を認めたとき、同車の速度は時速四〇キロメートル前後であつたと思う旨を供述している。以上を総合すると、加藤車の速度は、前記現場見取図の<ア>点から急制動措置をとるに至るまでの間は、時速五〇ないし五五キロメートル程度であつたと考えられ、時速六〇キロメートルを上回ることはなかつたものと認められる。ちなみに、被告人は、前記現場見取図の<3>から<4>に至るまでの自車の速度について、捜査段階においては時速五、六キロメートルと供述し、原審第四回公判においては、その後実験してみたところ大体時速一〇キロメートルであつたと供述しているのであるが、前記<ア>点から約五三メートル東方の衝突地点に至るまでの加藤車の平均速度が時速五〇キロメートルであつたとすると、この間三・八秒で、被告人車の前記<3>から<4>までの平均速度は時速八・七キロメートルになる。同様に、加藤車の平均速度が時速五五キロメートルなら、この間三・五秒で、被告人車の平均速度は時速九・五キロメートル、加藤車の平均速度が時速六〇キロメートルなら、この間三・二秒で、被告人車の平均速度は時速一〇・四キロメートルである。もちろん、加藤車が衝突までに急制動により減速していることを考慮に入れなければならないが、加藤車の速度についての前記認定が、被告人車の速度についての被告人の右各供述と矛盾するものでないことは明らかである。

ところで、前記のように、被告人車は本件交差点に進入したのち、現場見取図の<3>の位置に一時停止して直進車の通過を待ち、直進車が途切れたときに現場見取図の<ア>の位置に本件交差点に向かつて直進中の加藤車を認めたのであるが、このような場合、右折車である被告人車は直進車である加藤車の進行妨害をしてはならないという道路交通法上の義務を負うのであり(同法三七条)、被告人は、同車との接触・衝突事故を避けるために、同車の動静を注視して、同車までの距離及び同車の速度を判断し、さらに、自車が同車の進路上を通過し終えるのに要する時間を考慮して、自車が同車の接近に先だつて右折進行しうることを確認したうえで発進進行し、そうでない場合には同車が通過するまで発進進行を一時さし控えるべき業務上の注意義務を負つていたのである(原判決の判示する注意義務は、これと同一内容のものとして理解されるべきである。)。なお、「直進車の動静を注視する義務」という場合、これは結局、「直進車との関係で安全を確認する義務」というのと同義であつて、単に直進車を見ただけで同車の動静を注視したことになるわけではなく、自車と相手車との間の距離、両車両の速度などを判断したうえで、自車が右折進行した場合の危険の有無を見きわめて、はじめて直進車の動静を注視したということができるのである。

被告人は、前記のように、加藤車を現場見取図の<ア>点に認めたのであるが、夜間五十数メートル遠方をこちらへ向かつて進行しつつある車両の速度を正確に判断するのが困難であることは、経験則上明らかであつて、被告人がタクシー運転手として豊富な運転経験をもつにもかかわらず、結局加藤車と衝突するに至つたことからみても、被告人がこのとき加藤車の速度ないし加藤車までの距離について判断を誤つたことは明白である。したがつて、被告人は単に加藤車を「見た」だけであつて、被告人が加藤車の「動静を注視した」ということはできないのである。もつとも、加藤車が制限速度である時速四〇キロメートル以下で進行して来ていたならば、加藤車が現場見取図の<ア>点にあるとき、被告人が現場見取図の<3>から発進したとしても、両車両の衝突は回避することができたと考えられる。そして、右折車両の運転者は、直進車両を一べつしてもその速度を判断しえないときに、同車が制限速度を著しく超過して走行しているとの可能性まで、常に考慮に入れなければならないものではない。このような場合には、直進車両であつても右折車両に対し優先通行権をもたないからである。しかし、また、右折車両の運転者は、対向直進車が常に制限速度を遵守しているものと信頼することもできないのであつて、道路交通の実態からして、同車が制限速度をある程度超えて走行しているとの可能性は、計算に入れておかなければならないのである。被告人が加藤車を発見したときの同車の速度は前認定のとおりであるが、制限速度が時速四〇キロメートルのときに、青信号の表示されている交差点に向かつて広い道路を直進する車両が、時速五〇ないし五五キロメートル、あるいは六〇キロメートル程度の速度で走行することが稀な事態でないことは、時速二五キロメートル未満の速度超過が反則行為とされていることに徴しても、明らかであり、これを予測することが可能であるといわねばならない。したがつて、被告人は、加藤車を発見したとき、同車が右の程度の速度で走行している可能性もあることを計算に入れたうえで、同車の接近に先だつて自車が右折通行しうるか否かを判断しなければならなかつたのである。加藤車が右のような速度で走行していることはないものと、被告人が信頼することは許されない、といわねばならない。

以上の次第で、被告人が加藤車の速度ないし同車との距離の判断を誤まり、その結果、安全に右折進行できないにもかかわらず、安全であると誤信して右折進行したために、加藤車と衝突したことが明らかであるから、被告人には、加藤車の動静を注視する義務を怠つた過失があるといわねばならない。なお、原判決は「(加藤車)の動静を注視せず、同車よりも先に交差点を右折できるものと軽信して、右折進行した過失」と判示するが、厳密には、加藤車の動静を注視しなかつたことが過失であつて、同車よりも先に交差点を右折できるものと軽信して右折進行したことは、右の過失に基因する因果の過程であると考えられる。

したがつて、被告人の過失を肯定した原判決に所論の事実誤認はなく、論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決をする。

(裁判官 粕谷俊治 高橋正之 近藤崇晴)

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